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ふくちゃんという猫

近所に1匹の猫がいる。猫の模様はキジトラ白、お腹周りが妊娠しているのかと錯覚するほど大きい。首輪をつけているので野良猫ではないようだが、いつも外で活動していて、完全に飼い猫というわけでもないらしい。

私が4年前に引っ越してきたこの街は猫の多い街としてそこそこ有名で、雑誌などで取り上げられたこともあり、休みになると他県からも猫好きが集まってくる。だけどうちの近所は少し奥に入ったところなので、観光客はあまり見かけない。観光客よりも近所の住人たちに愛されている猫だった。


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※写真はイメージです。


近所の人々は思い思いの名で猫を呼ぶので、その猫の本当の名前を私は知らないが、本当の名前というものが猫の世界にあったとして私は猫の言葉はわからないのでどのみち確かめようがない。
あるとき住人の一人がその猫を「ふくちゃん」と呼んでいたので、私の中ではいつしか猫の名前はふくちゃんになっていた。

ふくちゃんは半径50mほどの縄張りを持っていて、私は毎日その縄張りを通行することを特別に許されて駅まで通っていた。ふくちゃんは縄張り内のスーパーの駐車場や、マンションのエントランス、弁当屋の軒先、ガレージの白いメルセデスのボンネットなどに座って道を眺めているか、そのお腹を引きずって散歩していた。
そうやって住人たちに癒しを与えていた。

気まぐれというのは猫の代名詞だけど、ふくちゃんは紛れもない気まぐれ猫のだった。いつもは前を通っても一瞥もくれないくせに、ある日は向こうから近寄ってくる。近寄ってくると足許に尾を向けて座り、近いけれど決してくっつかないという微妙な距離感を取るのだけれど、こちらから撫でようとすると、にゃあと鳴いて身をかわしてしまう。でもたまに撫でさせてくれる。
ただ、女性に撫でられているところをよく見かけたので、このように避けられているのは私だけなのかもしれない。


この前の日曜日、駅から自宅に歩いていて、いつものように縄張りに入った。ふくちゃんが寝床にしているメルセデスの停まっている一軒家の前で、ふと家の塀に貼り紙を見つけた。

貼り紙には、今月の初めに猫が死んだと書かれていた。
その貼り紙で私は、ふくちゃんの人間界での本当の名前を知った。

貼り紙の下にはいくつかの寄せ書きや、お菓子などが供えられていた。
この家は猫の首輪の持ち主で、餌をやり、事実上の飼い主であった。

そこにあるべきものを突然失った街は、ぽっかりと空間に穴が空いたようで、住人たちの行き場のない悲しみが漂っていた。

この話をどうまとめたらいいかわからないのだけど、私はこの街からまもなく引越してしまう。
いままでありがとう、そして安らかに。