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内田百閒「第一阿房列車」

 先週、内田百閒の「阿房列車」を買っていま読んでいるがこれが大変に面白い。しかし他にも同時並行的に読んでいる本がいくつかあって、そのひとつは図書館で借りた本だから期限があるので読まないといけないと思うとかえって読む気がなくなるものだが、そちらを読んでいるのでなかなか進まない。今日もKindleで小説の短編集を買ってしまったし、しかし頭の中は阿房列車だ。ただこちらは買った本だから読むのに期限はない。これが世に言う積読か。
 私が買ったのは新潮文庫の「第一阿房列車」だ。いま二章の区間阿房列車の途中まで読んだところだが、既に面白い。1ページ目からもう面白くて、というか面白い本は最初の一行から面白いものだけれど、1ページ目に書いてあることは列車に乗るなら一等車が良くて三等や二等には乗りたくない、三等車の乗客の顔つきは嫌いだと書いている。そのくせあとになって行きは一等でも帰りは三等でいいなどと書いている。
 そもそも列車に乗る理由が用事もなく大阪へ行ってみようということである。用事がないというのは目的地に特に用事がないということでそれは仕事だとか観光だとか、そういった目的がないことだ。つまり列車に乗ること自体が列車に乗る目的なので、だから一等がいいというわけだ。
帰りはなんで三等でいいかと言えば、

用事がないと云う、そのいい境涯は片道しか味わえない。なぜと云うに、行く時は用事はないけれど、向うへ著いたら、著きっ放しと云うわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。そう云う用事のある旅行なら、一等になんか乗らなくてもいいから三等で帰って来ようと思う。

 というわけだ。その少し前に、もともと地方から仕事の誘いがあったときに一等車なら出向いてもいいと、まあ断りの口実にしていたのを、それが戦争に入って一等がなくなって最近ようやく一等車が復活したもんだから今度は用もなく一等に乗ろう、それで帰りは用があるから一等に乗る必要はないというのだから、なんというか天邪鬼か。

 用もなく列車に乗るのはなんとも気分がよさそうだが、それも行きまでといえば確かにそうだ。それで思い出したのが、学生の頃に大回り乗車というのをやった。大回り乗車とは調べてもらえば早い話だが、簡単に言うとJRのルールで首都圏の決められた範囲であればどんなルートで乗車しても料金が一律だと決まっていて、それを逆手に取ってというか利用してとんでもない長距離を乗ってしまおうという遊びだ。わかりやすい例では山手線の新宿で乗って新大久保で降りたとき、外回りなら一駅だが内回りで一時間近くかけてまわってきても料金は同じ130円になる。
 この大回りには、同じルートを通ってはいけないとか、日にちを跨いではいけないとか一応いくつかのルールがある。もちろん改札を出ることはできない。そんな時間ばかりかかって得るものもない無駄なことをやるのは暇な学生くらいなものだろうが、そのひとりであった私は真夜中に思い立ってその日の始発で出発することにした。
 当時中野に住んでいたからまず中野駅へ行って、130円の切符を買って5時前後の始発で新宿に向かった。新宿から山手線で品川まで乗り、品川からは東海道線茅ヶ崎へ。このとき朝の7時くらいだっただろうか、通勤通学中の会社員や高校生と駅のホームですれ違う。しかしラッシュとは反対方向なので車内は空いたもんだ。茅ヶ崎から相模線で八王子へ行く。八王子からは八高線で高崎へ向かう。八高線とは八王子と高崎の頭文字で、二つの駅をつなぐから八高線なのだが、途中高麗川駅で乗り換えが必要になる。高崎ー高麗川間は非電化区間だ。この区間は昼時だったこともあってなんとものんびりとした雰囲気で、大回り乗車をしてるなあという気分だった。わかりやすく言うと退屈だ。それで高崎に着いたら、新幹線に乗り換えて東京に帰りたくなる気持ちをグッとこらえて、両毛線に乗り換え小山へと向かう。両毛線は駅に停車してもドアが自動で開かない北国仕様だ。ずっと乗っている私にとっては、開かないことよりも閉まらないことの方が重要で、閉め忘れていく輩がいるので困ったものだ。そういえば両毛線秒速5センチメートルにも描かれていた。
 小山からは水戸線に乗り換える。目的地は友部だ。もうどうしようもなく疲れている。乗り換えと言ったってそれほど時間があるわけでもなし、駅には特にめぼしいものもない。なにしろ改札からでることはできないから、あとはもう只管電車のシートに座っているだけだ。夜更かしして早起きしたから眠い。しかし寝てしまってはそれこそなんのために大回り乗車なんてしているのかわからない。大回り乗車をしたことがあると言いたいがためにやっているみたいではないか。それでは海外に行きたいのではなく、海外旅行に行ったことがあると何かの折に言うことができるようにしておくために海外旅行に行くようなものだ。
 友部からは常磐線に乗り換え我孫子へ、我孫子からは成田へ、成田からは佐倉へ、佐倉からは成東へと乗り継いで行った。計画ではこの後大網から外房線に乗り換えて、安房鴨川から内房線でぐるっと房総半島を一周してくる予定だったが、もう日も落ちつつあったし疲れたので予定を変更し、房総半島は次回に取っておくこととした。それで京葉線で東京へ向かい、東京駅から山手線の内回りで約半周、高田馬場まで帰ってきた。高田馬場で自動改札に引っかかったのは、おそらく切符に時間制限があるのだろう。駅員に見せたらすんなり通してくれた。かくして大回り乗車を終えた。

 長々と書いてきたが、とてもオススメはしない。しかしこの大回り乗車というのはぐるっと回ってほぼ同じ場所に戻ってくる旅であるから、行きも帰りもない。というか行くことが帰ることでもある。どこまでも、行きの旅をしていればもといた場所に戻っている。列車に乗ること自体が旅である。だから行きは用事があるけど帰りは用事がないということがない。だから内田百閒も大回り乗車をすればよかった。といっても大回り乗車に一等車やら三等車などないどころか、当時は国鉄でそんなルールがあったかもわからないし、E電が登場するよりもずっと前の話であるからそんな話をしても無意味だ。
 「阿房列車」の話だが、それであとは誰を連れていくという話になり、用もなく列車に乗りたいといいながら1人でいくのはつまらないから知り合いの国鉄職員の若者を連れて行くなどと言い出して、なかば無理矢理一緒に連れて行くのにそのヒマラヤ山系君は三等でいいだろうとか、それから旅費をどうするかとか、これは他所から借りてくるわけだが、大阪についたら酒を飲みたいとか、まあとにかく列車に乗るまでが長い。読んでいてもなかなか列車に乗らなくていったい阿房列車はいつ発車するんだという感じだ。しかしこれが走り出したら速い。鉄道唱歌など歌っているあいだにあっという間に大阪についてしまった。
 この文章のスピード感というか、緩急の付け方がまた面白い。前半のスローペースな文章などはまるで百閒の思考をトレースしているようだ。確かにこういう細かいことを我々はいつもグチグチ考えているわけだが、それを事細かに書かれている文章というのはあまり読んだことがない。しかし百閒はこれでもかと書いていて、まあ普通の人が書いていても面白くないんだろうけど、阿房列車は面白い。
 いま百閒と書いて思ったが、有名な作家のことを書くときにフルネームで書く人と、苗字だけ、名前だけとそれぞれどういう使い分けがされているのだろう。夏目漱石漱石と書かれて、太宰治は太宰と書かれることが多い気がする。三島由紀夫は三島か? 文中に何度登場してもフルネームの作家もいる。今日はここまで。