牡蠣が食えたら

#牡蠣食えば のサブブログにしました。

番町のイタリアン

 仕事で用事があって番町にやってきた。皇居の西側、半蔵門から四谷駅のある外堀にかけて広がるこのエリアの町名は、千代田区一番町から六番町と少し変わっていて、何丁目というのがない。江戸の頃は武家屋敷が並んでいた面影を残しているのか、ひとつひとつの区画が大きくて、歩いていると高級な邸宅をいくつも見つけることができる。
 電車のアクセスもよく、JRなら四谷や市ヶ谷が近いし、メトロなら半蔵門や麹町がある都心の一等地だからオフィス街でもあって、日本テレビが汐留に移転する前は、番町にスタジオがあった。その名残でいまでも日テレ通りという名前で呼ばれている通りがあるが、その頃の日テレはよく知らない。
 春になると外堀の土手の桜が満開になって、近くの会社に勤めるサラリーマンたちが木の下に花見のためにブルーシートを敷いている。宴会の時間にそんなところを通りかからないから、毎年見かけるのはシートの上に一人でつまらなそうに座った新入社員らしき若者の姿だけである。私の勤めている会社には花見という行事がなくてよかった。

 昼前に仕事を終えて、腹も減ったのでどこかで食事をしようと探しながら歩いていると、イタリア料理の小さなレストランを見つけた。入り口の前に置かれた椅子の上に黒板が立て掛けてあり、注文を受けてから1枚ずつ焼き上げますと書いてある。窯で焼きあげる本格ナポリ風ピザが売りらしい。それにサラダとドリンクがついて1000円ならば、ランチに1000円は少し懐に痛いけれど、場所柄を考えればそう高くもない。むしろその値段でピザが一枚食べられるなら安いくらいだ。店構えも変に気取ったところがなくて、これなら一人でも入りやすい。なによりさっきから漂ってくる焼きたてピザの香りが美味しそうである。今日はここすると決めた。

 内開きの扉を押して店内に入ると、想像していた通りのこぢんまりとしたレストランだった。細長い店内に4人掛けのテーブル席が2つと、10席のカウンターがあり、カウンターの中の厨房には男が2人立っている。厨房の奥に白いタイルでモザイク状に装飾された大きなドームが存在感を放っている。これがピザを焼く釜だろう。先客はテーブルに3人連れが一組と、カウンターの一番奥の突き当たりに七十手前くらいの老紳士がひっそりと座っている。平日のランチタイム真っ最中にしては少し客が少ない気もするが、空いている方がまわりを気にすることなく落ち着いて食べられるから私にとってはその方が嬉しい。
「こちらへどうぞ」
しかしあろうことか店員は老紳士の隣の席へ案内した。10席あるカウンター席の奥から2番目の席である。
「えっ、ここですか」
「こちらでお願いします」
戸惑いを隠しきれない。しかし私は、大抵の日本人ははっきりと言われると弱いことを知っている。
「狭いからひとつ空けてもいいですか」
「いえ、詰めて座ってください。あとで混んでくるかもしれないので」
そう言って無理やりにでも老紳士の隣に座らせられそうになった。
 言っておくがこの老人が嫌なわけではない。寧ろさっきから赤ワインなど飲んでいるこの老紳士は、身なりもよく動作は落ち着いていて、そのうえ年老いていながら縮こまったところがない。大変感じがよい。昼に一人で酒を飲みながらピザを1枚食べているとは余程のピザ好きか。カウンターの一番奥に陣取っているところからしてこの店の常連かもしれない。しかし客は奥から詰め込んでいくことを店の方針とするレストランのことだから、大方この老紳士も奥に追いやられたのだろう。
 ここで諦めて老人の隣に大人しく座った。という具合に書けば本当はいいのだろうけれど、それでは読者に嘘をつくことになるので白状するが、私は店員に挑戦した。
 店員に案内された席に、手に持っていた鞄を置いて、自分の身体はその隣の席に腰掛けた。しかし考えてみてほしい。店内には私の他にはテーブル席に3人とカウンターに老紳士がいるっきりでガラガラだ。なにが悲しくてそのガラガラの10席のカウンターの端っこ2席に、肩を寄せ合って座らなくてはいけないのだ。

 何食わぬ顔でランチセットを注文する。店員はさっきからなにも言ってこない。気づかぬ振りをすると決めたらしい。あとは店員の言うとおり本当に客が押し寄せてくるかどうかの賭けだ。しかしこちらだってなにがあっても席を動かないなどというつもりはない。混んできたら隣同士だろうがなんだろうが座るつもりであるが、単純に空いている店内で詰めるように座らされるのが気に入らない。こういう店は客を人だと思っていない。鶏などを檻に並べて順番に餌を遣っているのだとでも思っている。家畜だっていまでは放牧されたりもっといい食生活を送っているだろう。
 そうやって意地でもひと席空けて座ってみたものの、もうピザどころの気分ではない。何も食わずに帰るという手もあるが、しかし腹は減っているし、午後からまた仕事があるので、他の店を探している余裕はない。早くこの店を去りたい一心で、捏ねた小麦粉の塊にトマトとチーズをのせて焼いたものと野菜を胃袋に押し込んだ。

 店に入ってから15分と経っていない。席を立ち上がって会計をするまで結局店員は何も言わなかった。たまたまと言われてしまえばそれまでだが、会計をして店を出るまでの間、新しく入ってきた客は二三人しかいなかった。

 実はこれは半年ほど前の話で、先日また番町界隈を訪れる機会があり、例の店の前を通ってみたところ、どうやら潰れているようだったので、ざまあみろと思った。




※この記事は過去に投稿した記事を書き直して再投稿したものです。