牡蠣が食えたら

#牡蠣食えば のサブブログにしました。

愛のホテルミスターむきだしロンリー有頂天

 「ミスター・ロンリー」「愛のむきだし」「有頂天ホテル」の3本の映画を見た。「ミスター・ロンリー」は吉田類みたいな名前の栗原類みたいな顔をしたマイケルジャクソンのそっくりさんが中年マリリンモンロー(そっくりさん)にパリで出会って、彼女が住むスコットランドの城に行くという話である。なぜ彼女が城に住んでいるのかわからないが、ヨーロッパでは人の住んでいない古城が数多くあって、想像するよりもかなり安く購入できるらしい。ただ多くは長年管理もされず放置されていて内部は荒れ放題とかで、住むには多額の改修費用が掛かるばかりでなく、メンテナンスコストも馬鹿にならないという。建物自体も広い上に断熱性や機密性も悪いだろうから、冬場の暖房に使用する燃料費だって嵩むだろう。だから余程の城マニアか金持ちの道楽でもなければ古城に住もうとは思わないはずだが、三流モノマネ芸人の彼女らの何処にそんな金があるんだろう。城にはマリリンの夫のチャップリンや、エリザベス女王、ジェームズディーン、マドンナなどのそっくりさんが暮らしていて、赤ずきんちゃんもいてそれはただのコスプレじゃないかと思ったが、彼らの中ではリンカーンが本人によく似ていた。彼らは特に仕事をしている風でもなく、どうやって生活しているのか気になったが、食べ物などは自給自足的な暮らしをしているらしかった。
 城の敷地では羊を飼っていて、あるとき1頭の子羊が流行り病に罹りそれがきっかけで飼っている羊全頭を殺処分しなければならなくなる。それで羊を1カ所に集めて銃殺した。銃を撃ったのは三バカ大将だ。銃弾を何発も撃っていて、彼らは働いていないのによく弾が尽きないものだと思った。どのみち屍体は焼かなければいけないわけだから、例えば穴を掘って羊をおびき寄せて落ちたところで火を放つだとか、もっと効率のいい方法があるのではないか。だが彼らは彼らなりに羊達が最も苦しまない方法を考えていたはずで、生きたまま焼かれるのと逃げ回りながら何発も銃弾を食らうのとどちらがより苦しいのかはわからないが、ローマ法王の歌を聴きながら住人達が見守る前で殺すことが、彼らにとって必要なことだったのかもしれない。

 もうひとつの挿話はアマゾン奥地の村々に食料を投下するための飛行機から、パラシュートを付けずに落下したシスターが無傷で生還したという話で、これがいくつかのシーンに分割されて映画の最中に挟まれている。スコットランドにいるマイケルと、シスター達の関係は不明で、そもそもこの挿話自体が現実感に乏しいため、映画の中の現実としてのシーンなのかそれとも誰かの妄想なのかよくわからない。唯一つながりがあるとすれば、物語の後半にシスター達はその奇跡を認められてローマ法王に謁見しに行くというところくらいだが、スコットランドローマ法王はただのそっくりさんだから、やはり関係は不明だ。
 最初のシスターは不注意からの落下だったが、落ちながら神に祈りを捧げた結果シスターは無傷で着地して、これに神父が「信仰心が奇跡を起こした」と感動し、残りのシスター達にもパラシュート無しでスカイダイビングをさせた。神父が飛び降りろと言えばパラシュート無しでも飛び降りるのがシスターなのか。それが信仰ということなのかはよくわからないが、シスター達は楽しそうに空中で回転しながら落下したり、BMXのような自転車に跨るシスターもいた。シスター達は助かったが巻き添えを食った自転車がどうなったのか気になった。シスターは信仰心があるから奇跡的に助かったが自転車には信仰心は無いから自転車は落下の衝撃でグチャグチャになってしまったに違いない。それともタイヤから綺麗に着陸したのだろうか。
 シスターの教会には神父がいて、この挿話はある黒人男が自らの不倫について神父に懺悔するシーンから始まる。男は飛行機を使って家出した妻の元へ行こうとしていたが、飛行機の前で神父に説得されて、罪を認め懺悔しやがて涙する。神父はそれを優しく受け止め、宥める。それがアマゾンに食料配達に行く直前の話だ。「愛のむきだし」では主人公のユウが懺悔するための罪を作るために盗撮を始めた。懺悔をするために罪を働くというのはマッチポンプと言うか本末転倒だが、それは父親のせいだった。ユウの父親も神父だ。むきだし女のカオリに逃げられた腹いせにユウに対して毎日毎日「今日の罪は?」と執拗に懺悔を要求するようになった。「愛のむきだし」では滑走路の上ではなくちゃんと懺悔室が用意されていて、懺悔室の中では父と子ではなく神父と信者になる。罪はありませんと言うと「罪を自覚しろ」と怒られる。怒られたくないから大きな荷物を持って横断歩道を渡ろうとしている老婆を助けた日には「助けずに見て見ぬ振りをしました」と嘘の懺悔するがすぐに「嘘をつくな!」と見破られ、仕方なくユウは「小学生のボールが転がってきたので遠くに蹴り飛ばしてやりました」とか「蟻を踏んづけました」と罪を作り始めるが、父親である神父には「ふざけているのか」と罵られる。しかも懺悔室の中では何食わぬ顔(衝立があるので顔は見えない)で聞いておいて、家で夕食を食べながら父親の顔で「今日のは何だ。ふざけているのか?」というからやり口が汚い。それで悩んだ末にユウは犯罪の道を歩み始める。手始めに夜道で見かけた自動販売機荒らしをしている不良二人組に乱入して、不良グループの一員になったのだが、不良仲間の一人に値札のユウジという通り名の男がいて、ユウとユウジで紛らわしいなと思った。これがリアリティということだろうか。ユウは父が怖かったのか、あるいは父親の期待に応えたかったのか。最初は罪を作るために始めた窃盗、喧嘩、盗撮も次第にその行為自体にハマっていったのは、彼がひとつのことを極めようとする職人気質の性格だったからだろう。それを支えていたのは厚い信仰心だった。「神は全てをお許しになる」
 この映画の大部分はコイケの掌の上で転がされた人々の話だが、罪の求道だけは紛れもなくユウの意志だった。そして最後もユウの意志によって物語を動かした。「愛のむきだし」は上映時間4時間と聞いていたので覚悟していたが思ったよりもすんなり見られた。といっても自宅でDVDを止めたり戻したりしながら見たから長さを感じなかっただけで、映画館で見たらまた違っていたかもしれない。満島ひかりのパンチラを一時停止したりコマ送りして確認しながら見られたので、DVDが恰度よかった。けれど満島ひかりは最初から最後まで白で、4時間もあるのだからもう少しバリエーションがあればなお良かった。それ以外に感想は特にないです。