牡蠣が食えたら

#牡蠣食えば のサブブログにしました。

モロイを読みながら②

 fktackさんが昨日の記事の中で「モロイ」について触れられている。話が出てくるのは記事のは後半部分で、前半は「読字」について書かれているのだが、私はその部分を読みながら確かに「モロイ」は、特に第一章のモロイによる語りの部分は読むのが苦痛で、なかなか内容が頭に入ってこない、独特のリズムがあって掴みづらい、文章を読んでいるというよりも読字の感覚に陥ることがあるなと思った。しかし私はfktackさんが紹介している本を読んだことがあるわけではないから、「読字」という言葉の意味を正しく理解しているとは言えず、ただ文字通り「読字」の字を読んで「読字」とはこういうことだろうと想像で語っているだけです。なんという本を紹介していたかはリンク先でご確認下さい。ところで私のiPhoneには読字は変換候補にありました。

 「モロイ」は第二章にさしかかり、20ページほど読んだ。第二章は一見すると第一章よりも読みやすい、といえる。まず改行がある。驚くべきことだが一章には改行がない、ということに二章を読むまで気がつかなかった、いや単なる見落としかもしれない、さっきパラパラとページをめくってみたがやはり改行は見当たらなかった。
 では読みやすいかというとそんなことはなく、一章とはまた違った読みづらさがある。fktackさんが書かれているように、話がなかなか展開していかない、話を進めまいとする強い意思がそこに働いているかのようで、矢鱈と細かいことを引き伸ばしたりする。「モロイの捜査へ行け」という命令を受けてから、いつになっても出発しないのだ。
 読みながら私は内田百閒の「阿呆列車」を思い出した。「阿呆列車」も、目的もなく汽車に乗って旅をしようと思いついてから、汽車は行きは一等車がいいが帰りは三等でいい、1人で行くのもつまらないから誰かを連れて行こう、その連れて行く予定の若者を高い一等車に乗せるのは癪だ、その前に旅費を借りに行こう、といった具合でなかなか汽車が出発しない。会話がある分だけ「阿呆列車」の方が読みやすいかもしれない。
 このように二章を読んでいるとまどろっこしい気持ちになるが、また別の意味で、主人公の態度にも苛々してくる。というのは主人公、モランだとかいう中年男は自分のことを冷静だ冷静だと言うわりには、すぐ息子に対して声を荒げたり、女中に怒りを露わにして、ちっとも冷静じゃない。しかしこの第二章はモランの報告書という体をとっているから、モランは自分の行動を好きなように改竄して、そこまでいかなくても多少は脚色して書くことができたはずである。だから実際はもっと酷かったのかもしれない、などと考えても特に意味はない。
 第一章の読みにくさはもっと別のところにある。例えばそれは、一文があまりに長いために、主語と述語の距離が遠く、その間に長い修飾が幾つも差し挟まれて脳のメモリを食い潰していく、気を抜くと急に述語が登場し、主語はどこだっけ? となってしまうことだったり、話が頻繁に大幅に横道に逸れるから、「それ」などの指示語が指す対象が数ページ前まで飛んでいたりする、だから国語のテスト問題などに使ってみたらいいかもしれない。(なんてつまらないことを思いついたんだろう!)これは翻訳小説などでよく見かける1人ボケツッコミを真似したものです。しかしそんなことは慣れてしまえば大して難しいことではない。でもそれでこの小説をわかったなどと言うつもりはない。実際なにもわかっていないのだから。ただ読むだけなら難しいことはないと言いたいのだが、難しいことではないが、その作業は体力を要する上に、消去しきれないメモリーが溜まっていくから、10数ページを読んだら一度立ち止まって休憩が必要だろう。
 集英社の「すばる 3月号」に山下澄人が「モロイ」、「ペドロ・パラモ」、「プレーンソング」について書いている。というのも私がベケットを読もうと思ったのは保坂和志の「遠い触覚」やその他の本にしばしばベケットが登場するからであり、山下澄人もまた保坂和志の本に度々登場する。山下澄人はその中で、モロイは老婆の部屋に行くあたりまで読むといつもその先が読めなくなる、そしてまた思い出した頃に初めから読んで、やはり同じところで読めなくなる、と書いていた。私は毎回初めから読み始めるなんて「なんでそんなことをするんだろう」と単純に思った、怠け者だから一度読んだところは"もう読んである"ことにしたいのだ。じゃあ内容を覚えているかといえばほとんど思い出せないかもしれない。いくつかは思い出せるだろう。思い出せるからといって何になるのだ。
 ここでひとつ私が危惧しているのは、難解だと言われる小説や、わからないと言われる小説が、実は翻訳されたものを読んでいるからわからないのであって、原文のフランス語で読めば案外フツーに読めるのかもしれないということだ。カフカもそうだ。私はドイツ語もフランス語もわからないからいまのところ確かめようがない。読みづらい読みづらいと言いながら、読みづらいものを読んでいる自分に酔っているだけではないのか、あるいはマゾか。事実こうやって本に向かわずに、ブログなんかを書いているではないか。いや違う。「書くことは読むことである」とテキトーな言い訳を思いついた。もうひとつ「読まないことは読むことである」どういう意味でしょうか。

 fktackさんが上記の記事の中で、子供達に読書をしろと命令する教師を挙げて、教師がベストセラー10冊を読むことの難しさ(易しさ)を子供に例えて、ポケモンを100匹捕まえるくらいのことだと書いていたのが面白かった。100種類じゃなくて100匹なのが良い。なぜなら赤にしか登場しないポケモン、緑にしか登場しないポケモンがおり、私はポケモンの赤をやっていたがそれは従兄弟から借りたソフトで、通信ケーブルを持っている友達も、緑をやっている友達も周りにいなかったので、151種類揃えることはカイリキーやフーディンの点でもできなかったのです。でも100匹集めるだけならできたはずだ。時間をかければ誰でもできるところも読書に似ている。
 でもベストセラー10冊を読むというのは、例えば本屋へ行って文芸書ランキングの1から10位までを買って、特に興味もないのに読むという行為はそれなりに苦痛が伴うし、投げ出したくなるだろう。読みたくもない興味もない本を読むのは苦痛で、それは「モロイ」を読んだり「読字」したりするときに感じる苦痛とは次元が異なる。世の中には既に一生かけても読みきれないだけの本があって、時間は限られている、興味のないベストセラー小説を読むことは読みたい本を読む時間を削ることであり、読めば読むほどそれらを読めなくなる。つまり「読まないことは読むこと」だ。と思いつきでそれらしいことを言ってみたけど、本に向かっているよりスマホに向かっている時間の方が長い。だからまだポケモン100匹の方が易しいと思う。ベストセラー10冊に匹敵するのはポケモン151種類の暗記じゃないだろうか。それならクラスにできない子も何人かはいた。いまの子供達はその何倍もの種類のポケモンを覚えないといけないから大変そうだ。