小島信夫「寓話」を読んだ。また、その周辺の読書について

 fktackさんがブログのなかで何回か紹介されていて、保坂和志も著作に書いたり保坂和志が個人出版しているとfktackさんのブログでも紹介されている、小島信夫の「寓話」を読んだ。分厚い本で、長い小説なんだけれど、私は大変面白く読むことができた。どうやら「寓話」と似たような長い小説で「美濃」というのが面白いらしく、これは講談社文芸文庫で手に入るので次はこれを読もうと思ってAmazonで注文した。「寓話」は図書館で借りた、福武書店版を読んだ。

 保坂和志を読んだのは図書館で借りた「カフカ式練習帳」と「考える練習」が最初で、それまでの本の読み方をしていると保坂和志の文章は、何を言っているのか全然わからないところがあってーー私の理解力不足もあるが、けれどどこか中毒性があってつい読んでしまう。
 去年の秋に「遠い触覚」を買って、これも確かfktackさんのブログにマルホランド・ドライブのことが書かれていて気になったのだったと思うが、「遠い触覚」の初めの方には「寓話」の個人出版と小島信夫のことが書かれている。それを読んで私は「寓話」を読んでみたくなり、図書館で借りたのだけれど、その時は3章の浜中から掛かってきた電話の途中のあたりで投げてしまった。「寓話」を読む人の中には「1章〜3章までが鬼門で、そこから先はどんどん面白くなる」と言う人もいるらしいが、確かに1章と2章は初めて読む人にはわかりにくいところもあるが、そういう単純なものではないというような気もしている。

 「遠い触覚」も読み終わるのに随分時間がかかって結局最後まで読んだのは今年に入ってからだったが、その間にカフカの「城」と「審判」を読んで、エイモス・チュツオーラの「やし酒飲み」を読んで、サミュエル・ベケットの「モロイ」を読んで、小島信夫の「アメリカン・スクール」とその文庫に収録されている短編「小銃」とか「星」などを読んだりした。どれも「遠い触覚」や保坂和志の他の本の中で触れられていて、保坂和志を読んでいると他の作家の小説がよく出てくるので、やはり読んでいた方が文章も楽しめると思うのでそちらを先に読みたくなって、「遠い触覚」はなかなか読み進まない。「遠い触覚」を読んでいる最中には「書きあぐねている人のための小説入門」と「プレーンソング」も読んだ。内田百閒の「阿房列車」も確か紹介されていた気がする。こう書くと「遠い触覚」をまるで読書ガイドかなにかのように使っているようで、確かに私にとってはそういう部分もあるのだが、「遠い触覚」で触れられている本のたぶん半分も読んでいない。固有名詞ばかり並べて下手なSEO対策みたいな文章になってしまった。

 小島信夫の本は書店では殆ど見かけないんだけれど、神保町の東京堂書店の3階に行くと短編集成、長編集成といくつかの単行本も売っていた。「寓話」は絶版なのでもちろん売っていない。文庫も僅かながら置いてあり、私はKindleで読んだ「アメリカン・スクール」の文庫もあった。最近のことなのにどの本をどういう順番で読んだとか前後関係を全然思い出せないが、保坂和志の「未明の闘争」を読んで、文庫の解説に書かれた磯崎憲一郎の文章を読んで、この小説は一体なんなんだろう、保坂和志は何がしたかったんだろうーーこんなことを書いたら怒られるかもしれないがーーと思って、やっぱり小島信夫の「寓話」を読もうと思ったんだったと思う。その方がもっと面白くなるはずだ、と思ったのかもしれない。いま思い出そうとしているからそう考えているだけで、そんなことは考えてなかったかもしれない。

 最近また特に本を読んでいるのは、ブログを書くためにいいアウトプットを得るためインプットを沢山しましょう、というのは全くの嘘で、そんなこと考えてもいないし、ブログのために何かするというのは一番下らない。アウトプットのために読んでいるわけではないのは、実際読んでも感想はそんなに書いていないし、ブログのためにはなっていない。大体ブログのためになったところで何のためになるんだろう。
 そんなことはどうでもよくて、まずインプットするという意識がない、そういう意識で読んでいない。だって全然理解なんか出来てないんだから。「モロイ」なんか何が書いてあるのか全然理解できないし、吸う石のローテーションのくだりとかそういう部分部分は面白いけれど、あれをインプットするというのはそれこそ暗記するくらいじゃなければインプットしたとは言えないんじゃないだろうか。こんなこと言いながらこうやって感想のようなものを書いていると、なんだ矛盾してるじゃないかと誰かに言われるかもしれないけど。でもそうじゃないんだよなあ。
 「モロイ」の力は凄くて、あれを読んだ直後だったらどんな本でも読めるんじゃないかという根拠のない自信みたいなのが生まれる。それがfktackさんが言っていた読字のことなのか、保坂和志が「考える練習」の中で若い編集者はまずベケットを読めといったことなのか(これもfktackさんが書いていた)、わからないけれど、とにかく今なら「寓話」が一度は諦めたけど今なら読める気がしたんだと思う。

 わからない、理解はできない、ということについて、「寓話」の中で私が特に面白いと思った次のような部分がある。26章、森敦氏と電話をする場面で、浜中の手紙の中に書かれた浜中の妹から浜中に宛てられて書かれた手紙によって浜中の妹が昭和30年頃アメリカに来ていた小島の動静を探る(スパイする)ように兄である浜中から頼まれていたと明らかになったことを受けての二人(作者=小島と森敦)の会話である。

(260ページ7行目以下)

 森さんは、声を小さくして、
「小島さん、ぼくもそうだと思っていますよ。小島さん、これは、何しろ今もあなた自身が、はしなくも口にされたように、あなたの過去にかかわることというより、未来にかかわることのようですから。いわば未来が過去の中にひそみ、過去が未来をはらんでいるということですからね。それにあなただって、自分がなんであるか、よく分からんのでしょう」
「さまざまな意味でそうです」
「さまざまというのは?」
「どういっていいか、横にならんでいるというふうなのではなく、上下にというのでもなく、ぼくも」
 森氏は、即座に、
「あなたも、あなたによって動かされ、同時にあなたによって動かされているというのではないという」
「そんなようなことかもしれないし、そうではないのかもしれません。おそらく、森さん、あなたには、みんな分かっていると思います」
「分かっているといわない方がいい、という意味で分かっていますね。

 この部分は一読では本当にわからなくて、何度も読んだけど全然よくわからないのだけど、一応いくつかの解釈をすることはやろうと思えばできるけど、そういうことは書きたくないので書かないが、やっぱり面白いと思う。この場面までは浜中からの暗号で書かれた手紙を解読しながら、徐々に事実が明らかになっていくような、それは錯覚なのだが少しずつストーリーが、話の筋が見えてくるような感覚を覚えながら読んでいると、引用した箇所で急に霧の中に放り出されるというか、床が無くなるというか、いままで頼りにしていたものが消え去るような感じがする。

 引用したこの箇所だけでなく「寓話」のなかで森敦氏との電話のシーンは何回か登場するが、その章はどれも面白くて、話している内容は難しいことばかりなのだけれど、二人の間の阿吽の呼吸だったり、質問に対する答え方だったり、こういう会話ができたら、こういう会話ができる友人がいたら楽しいだろうな、またこういう会話のシーンが書けたら楽しいだろうなと思わせてくれる。カフカの「城」も雰囲気は全然違うけど似たような会話があって、あんな会話がーーあの小説はほとんど会話ばかりだがーー書けたら楽しいだろうなと思う。
 しかし「寓話」にも沢山の作家や小説の名前が出てきて、それらを読んだ上でまた「寓話」を読んだらまた面白いだろうなと思うが、「それらを」と軽い気持ちで書いたがそんな数年で読めるような量ではない、たぶん。そして読んだら、また別の本が出てきて、そうやって読書が拡がっていく。