トマス・ピンチョン『重力の虹 (上)』 読書感想じゃない文

 眠い。眠すぎる。ここは朝の通勤電車、ポケットに絶対入らないポケット六法よりもさらに一回り大きい本を開き文字を追う。すぐさま襲い来る眠気と疲労との戦い。読んでは戻り、また読んでは戻り、気づいたら寝ている。一向に進まないページ。それは沼地を進む単独行。膝上までどっぷり浸かった脚を持ち上げ、藻掻き、時には伏せたまま(沼に嵌ったときは徒に足掻くのではなく横になる。そうすれば圧力が分散され抜け出すことができると聞いたことがある)進み続けた。最初は2週間の予定だった、さらに2週間延長し4週間、やっと辿り着いた先は。黒、黒、黒からの白。白の訪れ。ロケット。頭の中に残ったものは?

 そもそもは保坂和志が『小説の自由』の中で、

ピンチョンの『重力の虹』は——ただし原文に限るらしいが——三回通読すると、四回目からすべてが鮮やかになって一行目のA screaming comes across the sky. から実際の音が頭の中で鳴り響いてトランス状態になる! という話を聞いたことがある

 と書いていたことがきっかけだった。しかし私は英語はわからないので2014年に出版された翻訳を読んでいる。そしてまだ上巻を読み終わったばかりである。

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)


 トランス状態になる読書体験があるなら是非とも経験してみたいものだが、それには少なくともあと3回は読んで、さらに原文で読まなければ。原文は英語にドイツ語、フランス語、ロシア語で書かれているらしい。アルゼンチン人も登場する。アルゼンチンはスペイン語か? そこまで辿り着けるとは思えない。耐えられる気がしない。耐える? 何に?

 実際の音が頭の中で鳴り響くと聞いてまず連想するのは映画だろう。この小説は映画のようだ、あるいは「映画だ」と評されることも多いらしい。背景の執拗な描写や小道具への言及は映画のセットを思わせるし、光の使い方へのこだわりも映画に通じるところがある。

 しかし映画と小説の違うところは——いまさら言うまでもないことだが——映画は説明なしに幾つもの要素を同時に並列に登場させることができるのに対し、小説は書かれた順番にしか登場しない。舞台は屋内か屋外か、時間は、天気は晴れか雨か、登場人物の数は、彼らの性別や年齢、服装や持ち物、金持ちか貧乏なのか、これらの情報が映像では瞬時にまた無意識に目に飛び込んでくるが(もちろんそこにトリックが使われている場合もあるのだが)、小説では書かれているものしか存在しない。画面に映っているものしか存在しない点では映画も同様に言えるかもしれないが、小説では一つのシーンを描写するのに1ページ使ったとして、1ページ目の最後の行に書かれた要素は1行目を読んでいる時点ではまだ存在しない。映画は最初のカットの最初のコマに既に存在している。
 ここが映画と小説の大きく違うところの一つで、小説では一つのシーンに10ページも20ページも使われたり、後になって同じシーンがまた登場したりするが、書かれていないものは存在しないので読者は20ページ目の要素を1ページ目の時点で頭の中に描写することができない。
 また忘れてはいけないのは小説を読むのには時間がかかるということだ。映像にすれば一瞬の出来事が読書では何倍もの時間がかかる。並列するはずのものに序列が生まれる。
 この「小説は書かれたものしか存在しない」と「存在するまでに時間差がある」の2つの特徴はどの小説にも当てはまることだが、『重力の虹』のように要素が非常に多岐にわたり時間も空間も並列させるような小説ではそれが読者に大きな負担を強いる。脳のメモリがどんどんと食われていく。だから眠くなる。これは仕方がない。脳のメモリは簡単には増やせない。メモリを食わないようにするにはなるべくハードディスクに保存しておくことだ。そのために3回も4回も読む。そんなことできるとは思えないけどね!

 朝の通勤電車では新聞やビジネス書でも読んで仕事モードに頭を切り替えるのがよく訓練された労働者の姿なんだろうが、ここ4週間の私は身体が会社の最寄り駅のホームに降りたとき、脳は完全にベッドの中だった。これがあと4週間続くのだ。