牡蠣が食えたら

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『わたしを離さないで』読書感想文

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)


私はまずズイショさんという方の上記エントリーを読みました。

正確には、

結局、どれだけもったいつけた前口上を述べてどれだけ蛮勇な決意表明を高らかに叫んだところで、未熟な私は最初の段落の最後には「ネタバレ要素を含むかもしれないので閲覧は自己責任でお願いします」と忠告するより仕方がないのです。

まで読んだところで、おっなんか面白そうな小説があるな、という期待感とともに忠告に従いブラウザをそっと閉じました。
そして、以降この本に関するネタバレは一切仕入れまいと、慎重に慎重に検索し、Amazonの商品ページに辿りついたところでたまたま隣にいた妻に、
「この小説知ってる?」
iPhoneの画面を見せました。
きっとそのときの私は「こんな面白そうな小説見つけたんだけどお前知ってる?知らないだろ?」と言わんばかりのドヤ顔もといしたり顔をしていたことでしょう。
ですので妻が間髪入れず「家の本棚にあるよ」と応えた言葉の意味を理解するのに数秒掛かったのも無理はありません。
妻は続けて暗い小説だったよとかなんとか、小説についての簡単な感想を少しばかり語っていましたが、私は既にネタバレを含むこの小説に関するありとあらゆる情報を受け付けない体勢になっていましたので何を話していたかまでは覚えていません。
かくして私はこの小説に興味を抱き、奇しくもその数分後には読み始めるに至ったのです。

そして今日、この小説を読み終わったので感想をこのように書いている訳ですが、その前に上記エントリーの続きを確認しておこうと思い、先ほど読ませて頂きました。
すると、最後までネタバレらしいネタバレはないではありませんか。なんだ、それなら最初に全て読んでから小説に取り掛かってもよかったじゃないか、と思いましたがしかしそれはいまだから言えることです。
この先には一体なにが書いてあるのだろう、という期待とともにこの小説を読み進めることができたのですから、感謝すべきことかもしれません。


さて、そろそろこの小説の中身について触れたいと思います。
この小説はまさに先ほど書いた通り、この先には一体なにが書いてあるのだろうという期待を始まりから終わりまで持ち続けるようなものでした。その期待に引っ張られるうちにするすると読み進めてしまい、気づいたら結末を迎えていました。これほどまでに滑らかに読むことができる小説を、私は他にあまり知りません。
激しい感情の起伏もなく、終始穏やかにーーとはいえ心から安らいでいるということではないでしょうがーー語りかけてくるこの小説は、一見地味で、退屈に思えるかもしれません。しかしその奥に秘められた深い悲しみと人間の弱さに、何度となく打ちのめされそうになりました。
そしてその気分が抜けぬまま、このような文章を書いております。


この小説には謎が多く登場します。そしてその謎には2つの種類がありました。
ひとつは、我々読者にとっては謎であってもこの小説の世界の中では謎ではない物事。ある一定の年齢に達した大人であればおそらく誰もが常識として知っているであろう、ごく当たり前のこととして扱われます。
したがって当然我々に対しても、知っていて当たり前のこととして特に説明もされません。まるで会社に入ったばかりの新人が、会議で先輩同士の会話を聞いているような気分になります。あるいは、その単語は知っているが私の知っている単語とは違う、といった感覚でしょうか。
会社であれば先輩に質問することもできますが、この物語は小説という形をとっている以上我々が質問をすることは許されておりません。
したがって、謎を解くには読み進めていくほかないわけですが、謎について正面から説明されることはありません。あくまで語りのなかで、ふとしたときにその姿の一部を現すといった感じでしょうか。
ごく自然に、しかし綿密に計算し尽くされた自然さで、ひとつずつ謎が明らかになっていきます。
この謎の解き明かし方が、この小説の最大の魅力だと私は思いました。

もうひとつの謎は、この物語の根底に流れるもっとも大きく、深く、暗い闇です。
読者は主人公の語りに導かれ、主人公と一緒に謎に迫っていきます。
無論、主人公が語ることは主人公が過去に経験したことですから、読者に語りかける時点ではもう謎ではないのでしょうが。主人公が謎に迫る過程を追体験するとでも言ったら良いのでしょうか。
この謎については多くを語ることはできません。こればかりは小説を読んでくださいとしか、言いようがないのかもしれません。静かに、穏やかに、ゆっくりと霧が晴れていく過程を楽しむものだと思うのです。


私はいま、この小説を頭から読み直しています。私はもう会社に入ったばかりの新人ではありません。この小説世界のある一定の年齢に達した大人であれば常識として知っていることを、私も知っています。
しかし私が思うのは、もし同じ立場になったときーー主人公のことではなくこの世界の一般的な大人達という意味でーーマダムや先生のような、考え方や行動をとることができるかと尋ねられれば、私にはできないだろうと応えるほかないということでした。

それはおそらく自分に対する嫌悪感を抱かせることになるでしょう。だとしても、すぐにもう一度読みたいと思わせるいい小説でした。