牡蠣が食えたら

#牡蠣食えば のサブブログにしました。

ハッピー黒板

こんな記事を読んだ。

ハッピー黒板というのは何ぞやという話だが、どこかの小学校の先生が毎日毎朝教室の黒板に、
「今日もハッピーかな!?」
「今日はどんな成長がまってるかな?」
といった具合のポジティブな言葉を詰め込んだ自作のポエムを書いたら、きっとみんな楽しく学校に来れるはずという一種の願掛けのようなものであるらしい。それは日本の初等教育界に古くから伝わる呪いや民間伝承といった類のものではなく、一人の教師によって始められ、ブログで紹介されている。なおハッピー黒板についてググったらその教師のブログではなく冒頭の記事が1番目に出てきたので、インターネット怖えと思った。
冒頭の記事は、そうはいっても本当に辛い思いをしてなんとか学校に来た子供が毎日毎日カラ元気のポジティブシャワーを浴びせられたらかえって辛かろう、今日こそは先生に打ち明けてみようと思った心は挫かれもうこの先生に期待するのはやめようとなるんじゃないだろうか?また本当に素晴らしい教育方法ならブログで宣伝する必要はあるのか?注目されたいだけではないのか?という内容のものであった。

ハッピー黒板を子供達はどう受け取るのだろう。自分が小学生だとして教室にあったらどうか、日直消すの大変だなって思うか、こういうのは最初の一二回は珍しがられても毎日続くと飽きられるよな、まず読まれなくなりそうと思う。読みたい人が読んでくれたらいいというスタンスならいいんだけど、毎朝みんなで朗読しましょうとかだったら嫌だなあ、いやこの先生がそうしてるのかは知らんけど。
小学生は子供といいつつも、もう自分でちゃんと考えることができるようになっていて、そうなると今度は押し付けられることを嫌うようになる。ついこの間までひとりで着替えもできなかった赤子がいつのまにか20mのフリーキックを無回転シュートでゴールに沈めることができる。特に担任教師など押し付けの権化みたいなもので、ともすると教師の言うことなんて取るに足らないことだと思ってしまいがちなのが小学生である。それから悩みを聞いてもらうとか、辛いときに励ましてもらうとか、そういうことを端から教師に期待していない。
励ましたり勇気づけたりは良いことだとしても、そういう子供達相手に教師の側から積極的にそれを打ち出していくと、かえって子供達は距離をとろうとするんじゃないだろうか。まあそういうことを考える素直じゃない子供や悩みなんてない子供向けに書かれているものではないかもしれないが。しかし子供というのは素直じゃない。それは当たり前である。子供は素直であってほしいというのは大人の勝手な願望だ。大人のいう素直とは、「俺の言うことを聞け」あるいは、「こちらの想定通りの反応を返せ」ということと同義である。大人は大人同士であれば、「あいつは俺の思い通りに動かない」とは思わないのに、いや中には思う奴もいるが、殊子供に対しては思い通りに動いて当然である、またそれを良しとするのは全くもっておかしい。励ましの言葉を掛けられたら無条件で励まされるわけではないというのは年齢に関係なく当たり前のことだ。

小学校5年時の担任教師は30代後半の頭の薄い男で、専門は国語の教師だったが、小学校では音楽などを除いて担任教師が授業を行うので国語以外も教える教師だった。国語教師はあるとき、「レクリエーションをしよう」と言った。レクリエーションというのは授業の事は一旦忘れて皆で遊びましょうという授業である。大抵はドッヂボールとか、鬼ごっことか、あるいは雨が降ったらハンカチ落としとかそういうのを小学生は好むと指導要綱に書いてあるのか、書いてないのか知らないが、レクリエーションではそういう遊びをする。なおハンカチ落としが小学校で頻繁に行われるのは、小学生に常にハンカチを携帯させ、衛生観念を養うことが奨励されているためである。もちろん嘘です。
その日のレクリエーションは変わっていた。ゲームをしようと彼は言った。ゲームというのはTVゲームのことではない。遊びのことだ。レクリエーションはほぼ遊びなのだから敢えてゲームをしようという必要があったのかはわからないが、国語以外も教える教師はそう言って、机を片付けるように命令した。掃除の時間のときのように椅子を机の上に裏返して乗せて教室の後ろに運んで並べた。教室の前半分ほどに広いスペースが生まれる。そのスペースに児童を整列させた。1クラス30人ほどの児童が、横6列縦5列の長方形に整列した。国語教師は児童の前に立ち、これからあるポーズをするのでそれと同じポーズをするように言った。そういうレクリエーションだった。なにが楽しいのかわからない。教師はまず右手を上に突き出し、人差し指で天井を指した。子供達もそれを真似する。次に左脚を折り曲げて片足立ちになった。そしてその状態で静止した。30人の隊列を組んだ子供達はそれを真似しようとして、人差し指を突き上げたまま、片足立ちになり、静止をした。その光景がおかしくて、なにかの修行のようにも見え、一人の児童が「どこかの宗教かよ」と教師を揶揄した。当時社会ではカルトや新興宗教が大きな話題となっていて、子供達もそういう話をよくしていたのだ。

授業が終わると国語教師はさっきの児童を呼び出した。呼び出したのは図工室の隣にある普段は授業で使われていない教室だった。彼は、
「さっきの宗教みたいというのはどういうことだ?」
と問い詰める。
「修行みたいに見えました」
「あれのどこが宗教なんだ!!」
ドンッーーという音が教室に響いた。それは黒板を蹴った音だった。蹴られた黒板は鈍くゆったりとその大きな緑色の体を震わせて衝撃を吸収した。もちろん黒板はそんなことでは壊れないので、彼は黒板を壊したかったわけではない。怒りをぶつけるためか、力を示したかったのだ。いま思えばあの国語教師は、家族が新興宗教に嵌ってしまったなどの問題の真っ只中にいたのかもしれない。子供にからかわれてついカッとなってしまうのは、教師としてはともかく人間としてはそこまでおかしいとも言えない。そういうことも考えて迂闊なことは口にしない方が身のためだというところまで気が回らないのが小学生の小学生たる所以である。
件の児童に後日話を聞いたところによれば、
「あの時はびっくりしました。もしあそこに黒板がなければ私が蹴られていたかもしれません。私を救ってくれた黒板は私にとっての英雄で、辛いことがあったときや学校に行きたくない朝も、学校に行けばあの黒板があると思うだけで勇気が沸き起こります。彼は間違いなく私のハッピー黒板なのです」
などと言われるはずもなく、蹴られ損の黒板には同情を禁じ得ない。あの日の黒板は間違いなくアンハッピー黒板であった。