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理解できないものこそが本当の才能だと思っていた

文章
又吉直樹の「火花」読みました。前から読もう読もうと思ってたんですけど単行本を買うのはなんだか気が進まなくて、Kindleで安く読めたらいいかなと調べてみたら値段変わらないしで読めてなかったんですが、文藝春秋9月号に掲載されるというので買ってきました。

 

火花

火花

 
文藝春秋 2015年 09 月号 [雑誌]

文藝春秋 2015年 09 月号 [雑誌]

 

 

単行本と違って雑誌だと受賞者インタビューや芥川賞選評という作家の偉そうなコメントなどがおまけで載っているのでお得ですね。同時受賞作の「スクラップ・アンド・ビルド」も載っています。こちらはまだ読んでません。

 
「火花」は主人公の徳永と先輩芸人の神谷との交流を描いた小説ですが、いつも人を笑わせてやろうとしている芸人達の生活ぶりを、それと対極にあるような落ち着いた筆致で書き綴るというミスマッチさが魅力でした。
先輩芸人の神谷は全然売れてないんだけど主人公の視点から見るとむちゃくちゃ面白くて笑いの才能の塊のような人間で出会ったその日に師匠にさせてくださいと言うところから話が始まるんですけど、読者は主人公の目を通して語られる神谷を見ますからやっぱり面白いんですよ。でもたまに面白くなくてそういう時は面白くないってちゃんと主人公の徳永が言う。そういう面白さと面白くなさが書き分けられているところがこの小説の上手いところで、小説の中で「この人は面白いことを言う人です」というのを表現するのは、現実に面白いことを言って目の前の人を笑わせるよりも難易度がモンスターボックス3段分は高いですし、「芸人の面白さと面白くなさ」について書かれた小説の中で、肝心の「面白さ」の部分が全く笑えなかったら、小説そのものの存在意義に関わってくるというか説得力皆無じゃないですか。そんなメタ的難しさのある中で作者はそれを見事にやってのけているんです。
面白いことと面白くないこと、そしてその中間にあるいくつもの段階、面白さのグラデーションを描き分ける作者は月並みですがやはり人を笑わせることを常に考え続けてきた人なんだなと思いました。
 
最初この小説はサクセスストーリーだと思ってました。売れない芸人が師匠に才能を見出されてコンビも新たに組み直して誰に媚びることもなく自分が信じるままにやりたいようにやったら人気が出て日本一の漫才師になりましたっていう陳腐なスポーツ漫画みたいな漫才王に俺はなるのかと思ってたら全然違った。まるで違った。いや別にワンピースを馬鹿にしたいとかそういうわけじゃなくて、漫才王という言葉を使いたかっただけなんですが〇〇王と書いたらそれが枕詞になって「俺はなる」を引き出してきてしまったというだけで、ワンピースがスポ根漫画だとかそういうことじゃあないです。
それで日本一どころか神谷はいつまでたっても売れないし、徳永も少しはテレビに出たけど結局芸人を辞めてしまう。才能の塊だと信じていた師匠は結局世間からは全く評価されなかった。しかもいつのまにか自分の方が師匠を追い抜いて、いつまでも後ろで足踏みしてる師匠の存在に気づかされます。
 
深夜のテレビに出るようになった徳永はあるとき神谷の女友達の由貴の部屋で自分の出演している深夜番組を三人で見ます。ですが一番面白いと言って欲しかった神谷の反応は今ひとつ。そして徳永は神谷に、
「ほな、自分がテレビ出てやったらよろしいやん」
「ごちゃごちゃ文句言うんやったら、自分が、オーディション受かってテレビで面白い漫才やったら、よろしいやん」
と言ってしまう。
もちろん徳永はそんなこと言いたいわけじゃなかったし、神谷の面白さについては自分が一番よくわかっていると思っている。テレビにちょっと出たぐらいで神谷の領域に辿り着いたなどとは微塵も思っていない。
でも芸人というのは結局世間の評価が全てじゃないですか。そもそも「笑ってもらう」「笑わせる」ということ自体が誰かの評価をベースに成り立ってて、いかに多くの評価を集めるかということを競っている芸人という職業にある人が、「世間に評価されないからといって価値がないというわけではない」という、これもまた一つの真理ではあるけれど、芸人という職業とは非常に食い合わせの悪い考えに拘っていては辛かろうと思いました。
 
結局神谷が面白かったのか面白くなかったのかという点については個人の好みの分かれるところですけど、私としてはやっぱり面白くなかったのだと思います。いや、最初は面白いと思ったんですよ。徳永の口から語られる神谷はとてつもない阿呆で異端で意味不明で破壊的に面白く描かれていて、徳永自身も理解しきれない魅力があった。でもそれは結局誰にも理解されなくて、神谷が売れることは到頭なかった。所詮自分の理解できる範囲のことなんて取るに足らなくて、「理解できないものこそが本当の才能である」みたいな考え方ってあると思うんですが徳永が神谷に対して抱いていた憧れはそういうものだったんじゃないかなと思いました。閉塞感というとありきたり過ぎてまた現代の小説語るときに閉塞感持ち出すのかよという風潮ありますが、誰も聞かない誰にも声が届かない花火大会会場近くの路上で漫才やらされて、年ばかりとっても収入は増えない、いつまでもこのままでいいのかという焦りがあって、何でもいいからこの現状を打破するなにかが欲しかった、ということを徳永は抱えていた。そこにたまたま現れた神谷はむちゃくちゃで、馬鹿馬鹿しくて、でも理解できないなにか凄いものがありそうで怖かった。この人についていけばなにかが変わるんじゃないかと思った。
 
この小説のテーマの一つに、「ひたすらに面白いことを突き詰めようとする芸人と、面白いだけでは売れることができないお笑いの世界」というのがあると思います。神谷は前者の人間で、徳永は前者に憧れながらも常識を捨てきれない人間でした。
神谷は面白いかどうかだけが行動の基準で、それ以外の基準がその面白くない頭を出しそうになったらことごとくそれを否定し粉砕し純粋に面白さのみを追求する。そしてそれは徳永から何度も何度も小説の中で語られる神谷の生き方そのものでした。
 
あまりにも何度も語られるので、芥川賞選考委員の一部には、
積極的に推すことができなかった。
「長すぎる」と思ったからだ。同じテイストの筆致で、同じテイストの情景が描かれ、わたしは途中から飽きた。
ー中略ー
皮肉にも、ていねいに過不足なく書かれたことによって、作者が伝えたかったことが途中でわかってしまう。
 
破天荒で世界をひっくり返す言葉で支えられた神谷の魅力が、後半、言葉とは無縁の豊胸手術に堕し、それと共に本作の魅力も萎んだせいだ。火花は途中で消えた。作者は終わり方が判らなかったのではないか。
 
などと書かれてしまっていましたが。高樹のぶ子は「言葉とは無縁の豊胸手術に堕し」と言っているがこれは要は神谷が失踪してから熱海に旅行に行くラストの一連の流れは蛇足だったと言いたいのだろう。
確かに最後のエピソードは、「神谷は世間に評価されないし顰蹙を買うけどただ面白いことの為だけにやっているだけで他意はない」というメッセージの繰り返しの様な気がして冗長に感じましたけど。
このラストシーンについては又吉もインタビューで、
もしプロットの段階で、熱海で出会った二人が熱海の旅館に旅をするラストシーンを思いついても、書かなかったと思います。それはなんというか……整いすぎてますから。でも実際には、「熱海で終わらせないほうが、作品としておシャレだよね」みたいな考え方は別にいらないとよくわかりました。熱海に行くか行かないかは小説にとって表面的で些細な問題でしかない。そんな細かいことに左右される段階を超えたものが描けると思ったからこそ、あのラストシーンを書いていいと思えたんでしょうね。
と述べていて、やはり書くか書かないか迷いのようなものがあったことが窺えます。あと「おシャレ」という表記は又吉氏自身が指定したのかインタビューなので編集部が書いたのかわかりませんが、お洒落じゃないなと思いました。
 
このシーンに限らず売れることと面白いことの違いについてこの小説では何度も語られて、その度に徳永は神谷の才能と世間とのギャップに悲哀を抱かずにはいられない。
神谷はもしかしたら本当に面白くて才能もある芸人だったのかもしれないけど、結局売れることはなかった。神谷の口から語られた独自の芸人論や笑いに対する姿勢は、それが正しかったとしても、神谷が売れていなければなんの価値もないものとして扱われてしまう。結局は売れたものが面白いもので、売れたものが漫才王なんですね。そうじゃない面白いものはもっといっぱいあるはずなのに、その多くはライターの火花のように一瞬で消えてしまう。いや、一瞬でも光ることができればいい方なのかもしれません。やっと火花使えました。
 
芸人を辞めるという徳永に神谷はこう言います。
例えば優勝したコンビ以外はやらん方がよかったんかって言うたら絶対そんなことないやん。一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。だから、一回でも舞台に立った奴は絶対に必要やってん。
だから、これからの全ての漫才に俺達は関わってんねん。だから、なにをやってても芸人に引退はないねん。
 この台詞がとても印象に残りました。「これからの全ての漫才に俺達は関わっている」常に笑いのことだけを考えてきた神谷らしい台詞だと思います。神谷は芸人になりたかったわけではなく、常に面白いことを追い求め続ける生き方をしていたらいつのまにか芸人の世界にいたのかもしれません。
 
 
ところで又吉氏はインタビューの中で、自身のエッセイについてこう答えていて、とても彼らしいと思います。
イメージしていたのは、太宰の短編です。落ち着いたトーンでまじめな顔をしていながらふざけていて、「この人、なんでこんなに笑かすのがうまいんやろ」と驚かされる。僕らが普段目にするエッセイは、テンションだけ異常に高くてあんまりおもしろくないものが多い。僕は「ふざけますよ」って宣言してからふざけるのではなく、まじめに書いているのに終わってみたらこいつが一番狂っている、と思わすのが好きです。
 特に、「普段目にするエッセイは、テンションだけ異常に高くてあんまりおもしろくないものが多い。」という部分。出版されてるエッセイもそうなのでしょうが、ブログなんて「テンションだけ異常に高くてあんまりおもしろくないもの」だらけです。
 
このブログもそうならないように気をつけたい。
 

今週のお題「読書の夏」