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自然に湧き上がる感情を押し殺して普通に接すること

文章

 昨日書いた記事に「タイトルをわかりやすく要約した結果、内容がタイトルを超えられない」という主旨のコメントを戴いて、じゃあタイトルをもっと短くして単語一つにすれば流石にタイトルで完結してしまうことはないだろうと、思ったが既にやっていた。しかもそれはつまるところ要約に過ぎない。なのでいかにもブログにありそうなタイトルをまず初めにつけて、それを出発点にゴールの見えないまま書いていくのはどうだろうと、そういう試みです。

 ここ二三日読んだ何人かのブログやネットのニュースで見かけた「欠損女子」と「いい加減フクシマと呼ぶのはやめてくれ」という2つの話題。一見関連性なさそうですが、これはどちらも「"かわいそう"な人にどう接するか」という問題を投げかけていると思った。

 "かわいそう"という言い方はこの2つの話題の当事者について言えば適切ではなくて、欠損女子はその障害を個性として、魅力として活かしていて本人も楽しそうだし、かわいそうと思わないでほしいと言っている。いい事だと思うし、私もかわいそうだとは思わない。福島の人も被害者という視点を押し付けないで復興している現実に目を向けてほしい、普通に接してほしい、というようなことを書いていたと思う。だから彼ら彼女らのことをかわいそうと言いたいわけではない。

 言いたいのは当事者ではなくて受け手つまり非当事者の問題のこと。非当事者は私でも我々でもみんなでもいいんだけど、便宜的に私とします。かわいそうかかわいそうでないか、それを決めるのは当事者であって私ではない。いつだってそう。けれど一般的に障害者や被災者など弱者とされる人は"かわいそうな人"という扱いを受ける。私だってなんの前情報もなく障害者を見ればかわいそうと思ってしまうかもしれない。そういう世の中の空気に対して「私はかわいそうなんかじゃありません!」と異を唱える。全く反対するつもりはない。

 私はどうすればいいのかという話。普通に接することの難しさを書いたブログも読んだ。それはフクシマの話題に触れて書かれたもので、震災後のいま震災前と同じように接することはできない、知ってしまったものを知らないものとして振る舞うのは不自然であるというもの。
 不自然に対する自然とは何も考えずとも浮かんできてしまうもの。震災の記憶。津波原発事故。これを無かったものとして以前の知らない自分に頭を強制的に切り替えて、人と接するのは自然なことなのか。それはいいことなのだろうか。
 このことは欠損女子に対しても考えるところがあって、率直に言って私は"欠損フェチ"ではないし、腕や脚の無い人を見て(言葉を選ばずに言えば)ギョッとすることがある。一瞬ビックリしてその後すぐに、1秒と間を置かずに「どうしたどうした、なにも問題ないぞ」と脳内の別の場所から指令が伝達されている。この瞬間に沸き起こる感情ですらない一瞬の現象を、自然な反応であるとして、自然な反応だからといってそれをそのまま行動に移すのは、いい事だとは思えない。普通に接することだとも思えない。かといって反応をしないようにしようしないようにしようと意識しても、思考で制御できるものではなく、余計に自分の自然な反応に対する自己嫌悪感を募らせることになる。対象を欠損女子に限らず、いわゆる障害者、いわゆる被災者、いわゆる被害者としても、同じことが私の中で起きているのではないだろうか。

 自然な反応と普通に接することの間で生まれる葛藤。これは私の問題であって当事者に向けられるべきものではないし、向けてはいけないし、自分一人で解決しなければいけない。そういう葛藤があるということだけを書きたかったがためにこれを書きました。

 欠損女子BARのイベントは本日だったのですね。私は新宿が苦手なので残念ながら行けませんでしたが、このBARに訪れた人が楽しんで、そうでない人も色々と考えるいいきっかけになれば、いいなと思うのであります。

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