牡蠣が食えたら

#牡蠣食えば のサブブログにしました。

ブログの型

 「ブログの型」についてまだ考えている。まだというのは少し前に誰かのブログで「毎日更新するなら型を使うといいよ」というアドバイスを見かけ、それからずっと考えていた訳ではないが、まだ覚えていたのかよという意味のまだである。
 私は型に嵌ったブログはつまらないと思っていて、このブログを始めてからもその前にはてな以外の似たようなサービスで書いていたときも、型に嵌らないようにすることをなるべく心掛けてきた。それでも積み重なってくるとある程度パターン化されるのは致し方ないもので、それがその人の型ということになるのだろうが、それは当たり前のことで型のない人なんてものは存在しない。しかし結果として型が浮かび上がってくることと、初めから型に嵌めるように書くこととは根本的に違うのであって、そこはやはり型に嵌めないように意識して書きたい。あるいは積極的に違う型を取り入れる。

 型に嵌ったブログはどの記事を読んでも(内容は違うのだろうが)同じに見えてしまうし、型に嵌ったブログは沢山あるからそれらを並べてみてもほとんど同じ人間が書いたのかと思えるくらいで面白くない。とある記事を読んで、面白かったので他の記事も読んでみようと過去の投稿を遡ることがあるが、その過去記事が同じような型に嵌って書かれていると2つか3つ読んだだけでもうお腹いっぱいで、特に毎回繰り返される自己紹介文など不要なものばかりが気になって内容が頭に入ってこず、それ以上読むことができない。そういう意味でも型に嵌ったブログは損をしている。

 一方で毎日更新をするのなら型を使った方が楽だというのは理解できる。書きたいことを型に落とし込むだけでいいから、内容にだけ気を遣えばいいし、毎日の更新にかかる作業時間も短縮できるだろう。
 しかしその結果として得られる「毎日更新すること」に何の価値があるのかわからない。書きたいことがあるのなら構わないがそれなら型なんてなくても書けるはずで、型に嵌めなければ毎日書くことができないほど辛いなら、あるいは書くことが苦痛なら毎日更新することはないのではないか。更新すること自体が目的になっていたら笑える。
 少しでも楽に更新できればいい、というのも更新することが目的になっていて、楽に書く必要なんかなく書けたところまでで終わらせればいい。書けるなら一日に何度更新したっていいし、書けなければ更新しなければいい。

 型に嵌めてまで毎日更新しなければいけない人というのはブログで得た収入で生活している人で、よく「自由に生きていきたいからブログで生活する」という話を聞くが、ブログで生活している以上ブログをやめられないし、辛いときには型に嵌めてでも更新しないといけない訳で「ブログの自由」からは程遠い。彼らに比べて私のブログは更新しなくていいし、いつ削除したっていいし、アクセス数を気にすることもアクセス数のために他人の糞つまんねえブログを読むことも糞つまんねえ人気ブロガーに媚を売ることもしなくていい分だけ私の方がよっぽど自由である。

 ところでブログを書くという行為自体、文章をブログという型に流し込んでいくことに他ならない。いくら型に嵌めずにブログを書こうと試みたところでそれもまたブログという箱の中での話に過ぎず、ブログという既存のメディアに縛られているのに自由に書きたいとか、自分はブロガーじゃないなどと言ってみても滑稽だ。文章を書く場所なんてブログである必要はないし、私は文章を書くのが嫌いだから早く頭に思い浮かんだセンテンスを自動筆記してくれる装置が開発されないかと望んでいるが、もっと言えば文章にならなくても思い浮かんだことがそのまま相手に伝わってくれれば楽なんじゃないかと思うので、若い人たちにはそういう新しいメディアをクリエイターしてほしい。

 ところで、しかし、それでも、そういった接続詞もなるべく減らしていきたい。