牡蠣が食えたら

#牡蠣食えば のサブブログにしました。

サッポロビール「エビス #126」

ごきげんよう。
セブンイレブンでエビス#126という謎のビールを購入。「デュアルスムース」という謎の単語を除いてラベルに味に関する情報が何もない。
スムースと言うかスムーズと言うか迷うときありませんか?

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サッポロはいつもいつも味に関する情報を一切書かないふわっとしたイメージだけを伝えるビールを発売しているがエビスでは初めてなのでは。

一応調べたところによるとエビスビール126周年だとのこと。

http://www.sapporobeer.jp/yebisu/126/


これは果たして。



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オープンthe缶。黄色い液体。見た目は普通のビール。

香りはなし。口に含むがアタックというものが皆無。鼻に抜ける香りもない。酸味、旨味、コク、いずれもなし。

やや苦みがあるがIPAほどではなく、キリンラガービール程度の苦み、かつホップの香りは無なので、味わいとしては苦い水。苦みだけある謎の液体である。リピートはおそらくない。

ごめんあそばせ。

台湾風枝豆

台湾風枝豆という料理がインターネット上に存在し、台湾に実在するのかはまだ知られていません。私は実在です。
今日はインターネットから料理を取り出します。



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枝豆を茹でたものです。いい枝豆ほどハムスターの檻の臭いがしますが、いいハムスターほど枝豆の臭いがするとは限らない。子供の頃実家で飼っていたポチはある日家に帰ると冷たくなってたので庭に埋めました。今考えるとあれは冬眠だったのではないかという思いです。

こいつを炒めます。

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フライパンに、ごま油、ニンニク、鷹の爪、八角を入れ火にかける。



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様子



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枝豆を投入し炒める




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軽く炒めたら醤油を少し入れ、黒胡椒を狂ったように振る。



はい完成
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ニンニクと鷹の爪を入れたオイルを熱したところへなんらかの茹でたモノを和える工程はペペロンチーノとなので、うまいに決まっている。
味ですが、炒めるとは言ってもガワはついたままなので、食べる時は普通の枝豆と同じように豆を押し出す必要があり手がベタベタヌルヌルになり、肝心の中身の豆は普通に茹でた枝豆の味がします。
そのままでも美味しく食える茹で枝豆をわざわざ炒める労力に見合った味なのでしょうか。さあ。労力を払ってください。
反省点は八角の香りが今ひとつだったので、八角を増やす、挽く、油に香りを移す時間を長くするなどの改善点が考えられます。
7月8月で計30日ほど茹でた枝豆を食べるとして、そのうち2日はこれにしてもいいかなという料理です。

トマス・ピンチョン『重力の虹 (上)』 読書感想じゃない文

 眠い。眠すぎる。ここは朝の通勤電車、ポケットに絶対入らないポケット六法よりもさらに一回り大きい本を開き文字を追う。すぐさま襲い来る眠気と疲労との戦い。読んでは戻り、また読んでは戻り、気づいたら寝ている。一向に進まないページ。それは沼地を進む単独行。膝上までどっぷり浸かった脚を持ち上げ、藻掻き、時には伏せたまま(沼に嵌ったときは徒に足掻くのではなく横になる。そうすれば圧力が分散され抜け出すことができると聞いたことがある)進み続けた。最初は2週間の予定だった、さらに2週間延長し4週間、やっと辿り着いた先は。黒、黒、黒からの白。白の訪れ。ロケット。頭の中に残ったものは?

 そもそもは保坂和志が『小説の自由』の中で、

ピンチョンの『重力の虹』は——ただし原文に限るらしいが——三回通読すると、四回目からすべてが鮮やかになって一行目のA screaming comes across the sky. から実際の音が頭の中で鳴り響いてトランス状態になる! という話を聞いたことがある

 と書いていたことがきっかけだった。しかし私は英語はわからないので2014年に出版された翻訳を読んでいる。そしてまだ上巻を読み終わったばかりである。

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)


 トランス状態になる読書体験があるなら是非とも経験してみたいものだが、それには少なくともあと3回は読んで、さらに原文で読まなければ。原文は英語にドイツ語、フランス語、ロシア語で書かれているらしい。アルゼンチン人も登場する。アルゼンチンはスペイン語か? そこまで辿り着けるとは思えない。耐えられる気がしない。耐える? 何に?

 実際の音が頭の中で鳴り響くと聞いてまず連想するのは映画だろう。この小説は映画のようだ、あるいは「映画だ」と評されることも多いらしい。背景の執拗な描写や小道具への言及は映画のセットを思わせるし、光の使い方へのこだわりも映画に通じるところがある。

 しかし映画と小説の違うところは——いまさら言うまでもないことだが——映画は説明なしに幾つもの要素を同時に並列に登場させることができるのに対し、小説は書かれた順番にしか登場しない。舞台は屋内か屋外か、時間は、天気は晴れか雨か、登場人物の数は、彼らの性別や年齢、服装や持ち物、金持ちか貧乏なのか、これらの情報が映像では瞬時にまた無意識に目に飛び込んでくるが(もちろんそこにトリックが使われている場合もあるのだが)、小説では書かれているものしか存在しない。画面に映っているものしか存在しない点では映画も同様に言えるかもしれないが、小説では一つのシーンを描写するのに1ページ使ったとして、1ページ目の最後の行に書かれた要素は1行目を読んでいる時点ではまだ存在しない。映画は最初のカットの最初のコマに既に存在している。
 ここが映画と小説の大きく違うところの一つで、小説では一つのシーンに10ページも20ページも使われたり、後になって同じシーンがまた登場したりするが、書かれていないものは存在しないので読者は20ページ目の要素を1ページ目の時点で頭の中に描写することができない。
 また忘れてはいけないのは小説を読むのには時間がかかるということだ。映像にすれば一瞬の出来事が読書では何倍もの時間がかかる。並列するはずのものに序列が生まれる。
 この「小説は書かれたものしか存在しない」と「存在するまでに時間差がある」の2つの特徴はどの小説にも当てはまることだが、『重力の虹』のように要素が非常に多岐にわたり時間も空間も並列させるような小説ではそれが読者に大きな負担を強いる。脳のメモリがどんどんと食われていく。だから眠くなる。これは仕方がない。脳のメモリは簡単には増やせない。メモリを食わないようにするにはなるべくハードディスクに保存しておくことだ。そのために3回も4回も読む。そんなことできるとは思えないけどね!

 朝の通勤電車では新聞やビジネス書でも読んで仕事モードに頭を切り替えるのがよく訓練された労働者の姿なんだろうが、ここ4週間の私は身体が会社の最寄り駅のホームに降りたとき、脳は完全にベッドの中だった。これがあと4週間続くのだ。

由伸

 Facebookを見ていると私の知らない名前の人物が「結婚式を挙げました!」と報告しているのを見つけた。私は自分に関係のない人の投稿などがアクシデントで流れてくると片っ端からブロックしているので、基本的に知らない人の投稿がタイムライン上に表示されることはない。なので、お前誰だよ!と思い、その忌々しい結婚報告を詳しく見てみると、それは巨人の高橋由伸に似ているので皆から由伸と呼ばれていた中学の同級生、高橋だった。

 その同級生(以下、由伸という)は既にFacebookのおともだちだったので私のタイムラインに登場したのであったが、苗字が高橋ではなかったのでパッと見わからなかったのだ。ついでに写真も投稿されていたので由伸の結婚相手の顔を興味本位で拝見した。もちろんそれは知らない人の顔だった。中学時代の高橋由伸と言えばその甘いマスクに慶応大学卒というブランド、そしてなにより天才と呼ばれたバッティングで大変な人気があったが、チームは毎年のように他チームから大型選手を買ってくる上に肝心のその選手は活躍できず、他チームのファンからは非常に嫌われていた。私の地元はプロ野球チームが無いので地元にプロ野球チームがある人が羨ましいが、地元にプロ野球チームが無い子供は巨人ファンになる確率が高いという個人的調べがある。私の地元も例に漏れず、自動的に巨人ファンになる子供が多かった。それから巨人はたまに二軍が市営球場に来て試合をやってくれる。相手はライオンズの二軍だった。人間は自分の目で見たものを好きになる習性があるので、神宮球場の周りで練習後のヤクルトの選手をいつも見ている東京の小学生と違って日頃プロ野球を間近で見る機会のない田舎の子供にとってはそれだけで巨人ファンになる理由になったが、けれどもその年は私の周りでもアンチ巨人が多かった。

 しかし由伸は中学の頃からモテて、付き合う相手も取っ替え引っ換え、羨ましい限りだった。卒業後もその勢いは増すばかりでとにかくいつも相手がいたような記憶がある。しかしいつも付き合う相手は決まって中学の同級生だった。20代も半ばに差し掛かるころ、ある同級生から聞くと、

「由伸いま松井と付き合ってるらしいよ」
「えっ?上原は?」
「それはもうだいぶ前に別れたよ。上原と別れて清原と付き合って、それでまた別れて松井と付き合ってるって」
「マジか清原もかよ、知らなかった」

 こんな会話が日常茶飯事に繰り広げられる。あれ?松井と付き合うの何回目だっけ?阿部とはもう付き合ってたっけ?もはやどうなっているのかわからない。上原も清原も松井も阿部も同じ中学のサッカー部。由伸が中学時代に付き合っていた何人かの相手も全てサッカー部だった。由伸はどうやらサッカー部が好きなのか、あるいはコレクター気質なのか、サッカー部出身者が次々と実績解除されていった。そんな由伸が結婚相手に選んだのはサッカー部出身者でもなく、同じ中学出身の同級生でもない普通の一般男性だったので、とても温かい気持ちになりました。